時代遅れか、最新式か!? 洋式要塞「函館 五稜郭」

【城郭データ】

築城年:1866年 (慶應2年)

城主:徳川幕府(とくがわばくふ)1603設立 – 1867消滅

特徴:日本最初の稜堡式城郭  *特別史跡

装備:稜堡5

現住所:〒040-0001 北海道 函館市 五稜郭町44

アクセス:https://www.city.hakodate.hokkaido.jp/docs/2014012100700/

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日本初の洋式城郭にして最北の城。城というより要塞ですが、そんな細かいこと言っていると鬼の副長に袈裟斬りにされるレベルで分類などどうでもよくなる堀と土塁。

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五稜郭が素晴らしいのは併設の五稜郭タワーから俯瞰できること。名古屋かどこかの城が同じことをやろうとしたら景観を損ねるとして大反対されたようですが、確かに天守閣のある城で横にタワーがあるのは、やっちまった感がありますね。
これができるのも銃撃や砲撃対策で重心を低く作られた五稜郭ならでは。

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箱館山と函館湾方面。五稜郭が函館の他の観光名所から若干離れているのは、ペリー来航以来、外国船による艦砲射撃の射程圏外に奉行所を設置する必要に迫られ、この地が選ばれたから。
それでも5年後に新政府軍の艦砲射撃の射程圏内に入ってしまい狙い撃ちされるという技術革新の速さに屈服した悲しい城でもあります。

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五稜郭が面倒なのは城とみるか、要塞とみるかで全く評価が分かれてしまうところです。
城とみると、そもそも海が近く大砲主体の3次元で弾が飛んでくる時代で、対小銃向けであるこの形式の要塞は古過ぎるというのが専門家の見地です。

ちなみに下の写真はイギリスの「ディール城」です。ディール城の築城は16世紀のヘンリー8世の時代。つまり日本の戦国時代にはもうこの形式は西洋にはあったということです。19世紀も終わろうとしている幕末時の軍事技術に対して、いくら日本の装備が同時期の西洋に比べて旧式とはいえ五稜郭が城塞として、いかに心許ないかが窺い知れるでしょう。

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話は戻りますが、蝦夷共和国を設立した榎本武揚らは五稜郭内部に政庁を設置したので完全に城としての役割を持たせています。すなわちここを奪取されるとゲーム終了になります。最後の砦としては五稜郭は不適格なのです。(さっきそんな細かい分類どうでもいいって言ってたような・・・)

一方、要塞とみると五稜郭を最前線とすることで攻撃目標として敵の集中を受けやすくなります。これは敵側の動きを容易に予測できるという点で戦略が立てやすいのです。

またウィンストン・チャーチルはフランスの超巨大要塞「マジノ線」の世間の悪評への反論として「相手より戦力が劣勢で戦線が長い場合は最前線の巨大要塞は座り込んだままの部隊を節約できる」と著書「第二次世界大戦」で、そのメリットを強調しています(運用に関しては批判してますが)。

そういう意味では五稜郭は「要塞」としての存在価値はありそうですね。

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函館戦争の不幸は箱館山と五稜郭を結ぶ両脇を海に囲まれた貧弱な細い線を最前線としてしまったことでしょう。鬼の副長土方歳三も箱館山救援の途中で戦死してしまいます(密かに満州に渡り馬賊の頭目になったというトンデモ説あり)。

五稜郭をおとりにさっさと放棄して湾を見下ろせる箱館山に立て籠るか、冬を待って蝦夷地の奥地に政庁を後退させてゲリラ戦を展開したらもっと持ちこたえたかもしれません。

そもそも本気で蝦夷共和国を建国しようとしていたのか怪しいところですが(戦線よりお前の話の方が長いよと聞こえた・・・)。

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それでもその不完全さが城の魅力でもあります。おいおいと思わずツッコミを入れたくなる瞬間に人間性を感じます。
ちなみにこの石垣の上のひさしは武者返し。ネズミ返しみたいなものですね。

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復元された「箱館奉行所」。こんなものを作ってしまったが為に、船から五稜郭の位置がはっきりと分かり、正確な艦砲射撃を受けまくるというTHE 無用の長物。だがそれがいい。

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洋式城郭の虎口ともいうべき見隠塁(みかくしるい)。門から侵入してきた敵に内部を見られないように巨大な堡塁を設置し、敵を左右へ分散させて誘い込みます。日本の城の繊細な造りに比べて簡素なのはやはり洋式要塞なのでしょう。金欠でシンプルにしか作れなかったという話もありますが。
冬にみんなで雪合戦したら楽しいと思うのですが、そういう企画はないのか。

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