博多へ入りたければワシを倒してから行け! 「名島城」 

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福岡県は名島城へ。海に面した水城です(かろうじて)。古くは神功皇后の三韓征伐の出撃基地(伝説)だったり、モンゴル軍が海から攻めてきたり、九州まで都落ちした足利尊氏がここで菊池氏の大軍を破り京都まで攻め上ったり、博多を狙う毛利元就と大友宗麟がすぐ側の多々良川を挟んで戦ったりと名島城一帯は古戦場の宝庫。

もはや海に突き出た海城としての原型を留めていませんが、名島城を陥落させて多々良川の対岸に渡ると、もう博多まで一直線。THE 交通の要衝です。

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ちなみに戦後すぐは名島城の対岸は森になっていて、首つりの宝庫でもあったらしい。

遠くの方から話しかけてきた(!)、地元に詳しい元消防隊員(55)からの情報。知らないオッチャンが話しかけて来るという、お城あるある。

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多々良川沿いに河口へ。そして海岸線沿いに歩いて行くと何となく(笑)それらしきところが遠くに見えてきます。しかし完全に市街地。

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博多湾がきれいですね。この辺は戦前は潮干狩りもできたようです。

もうちょっと先に進むと水上飛行機の「名島飛行場」があったとか。満州や朝鮮半島方面へ飛んでいたようです。

世界一周中のリンドバーグも名島飛行場に立ち寄ったとか結構すごい歴史がさらっと紹介してあります。

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のどかでいい所じゃねえかと油断していると突然、こういうものが現れます。真珠湾攻撃を記念する石碑。日本版リーメンバー・パールハーバーといったところでしょうか。

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さらに進むとまた何かを発見。この間、名島城を一切忘れる。

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樹木の化石のようですが、この形状が帆柱に似ているということで大昔は三韓征伐でこの名島の地から外征に出た神功(じんぐう)皇后の船の帆柱だと言い伝われていたようです。なんという古代遺跡!いや、樹木の化石だけど。

神功皇后と三韓征伐、八幡神社と「敵国降伏」についてはまたの機会にして(というか城関係ないな)、何が言いたいかというと、ここ名島城の地は三韓征伐から真珠湾まで、とにかく海にまつわる勇ましい逸話の宝庫だということです。

ということで、海とともに生きてきたこの名島の歴史がお分かり頂けたでしょうか。

ちなみに真珠湾攻撃との関係は勉強不足で分かりません(素直)が、海城、外征、敵国降伏、飛行機・・・キーワードだけ集めると、まさに空母と航空機による真珠湾攻撃。そういうことか!・・・どうかは分かりません。

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ということでそろそろ本題(名島城)に戻りましょう。

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この名島神社のいわれは古く・・・て、まだ城の話やないんかいとツッコミをいれたくなりますが、実はこの名島城は元々名島神社が本丸付近に鎮座していたものを城の築城と同時に海外沿いへ移築し、今に残っているのです。

交通の要衝だけにこの地に城は室町時代にはもう存在していたようですが、ここを近世城郭、織豊系の城郭に造りかえたのは毛利元就の三男にして、アタマいい!性格いい!お金持ち!友達にしたい男NO.1!(自分調べ)の小早川隆景です。

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本丸に掲示されていた看板より名島城縄張り図。橋を数カ所切り落とせば完全に浮沈空母。

瀬戸内から一緒に連れてきた水軍衆を海側よりバンバン出撃させれば、あっという間にトラトラトラですね。

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という妄想も束の間。よく考えれば秀吉の命令でこの地に城を築くことにしたそうですが、九州平定も終わって平和になったこの時期に海城を造れということはそう、朝鮮出兵の足がかりだったのでしょう。

実際、名島城は肥前名護屋城の後詰め、補給担当の城でもありました。

後の世に黒田長政が筑前に入ってきますが、名島城では手狭だとさっさと福岡城を築城して移ってしまいます。小早川隆景も筑前・筑後の大大名だったのですが、秀吉の命令がなければもっと開けた土地に城を築きたかったかもしれませんね。

というか縁もゆかりもない九州に来たくはなかったか。

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さてここからが本丸です。

名島神社の社殿から本丸へ続く階段。ちなみに秀吉の出来の悪い養子を押し付けられて困ってしまった毛利輝元(元就の孫)を助ける為に、

小早川隆景は是非、小早川家の養子にくれと秀吉に直訴して、その出来の悪い養子を貰い受け、実家の毛利家を助けたというめっちゃいいヤツエピソード。

その出来の悪い養子こそ、関ヶ原の戦いで西軍を裏切り、死去後も江戸時代を通じてずっと武士の風上にも置けぬと陰口を叩かれ続けた小早川秀秋。

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本丸跡です。戦後はしばらく製糖会社の社長がここに住んでいたらしい。地元に詳しい元消防隊員(55)からの情報。

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ちなみにこの地元に詳しい元消防隊員。名島在住55年のベテランです。遠くの方から挨拶してきて、最初は人違いだろうと無視していましたが、どうも私に向かってくるではないですか。

観念しておしゃべりのお付き合いをすることになりましたが、この方が地元と名島城に非常に詳しい。

ありがとう。私のような無作法な人間に名島の歴史から噂話、セアカゴケグモの脅威まで丁寧に教えてくれて。

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向こうの山は立花山。もちろん立花山城という城があります。行かないと…。

小早川隆景は名島城に移った後すぐに家督を秀秋に譲り、隆景は隠居先の地元、三島城(広島県)に帰って行き、程なくして死去しました。

その後の関ヶ原の戦いはもうご存知の通り。

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本丸跡にはかすかですが、名島城の名残が見えます。織豊系の城郭だったということですから、往時はおそらく立派な石垣と櫓、天守がそびえ立っていたことでしょう。

地元に詳しい元消防隊員(55)の話で妄想力は更に威力を増して、私には海にそびえる巨大城郭が見えますね。

戦いの最中に西軍を裏切り東軍を味方した小早川秀秋は、その功で岡山五十五万石の大大名になりますが間もなく死去。

跡継ぎもいなかった為、小早川家は断絶となりました。明治維新後に毛利家の進言で小早川家は再興されますが、毛利家にとってもこの時代は何となく小早川家が秀吉一家に乗っ取られていた感が否めないですね。

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ちなみに名島城の石垣や櫓、門など使える物はほとんど福岡城に持って行かれました。

ということで新しい時代の始まりです。

岡山に移った小早川秀秋に代わり、この地にやってきたのが黒田長政です。最初に名島城に入城しましたが、どうも手狭だと本拠地の移動を願い出ます。

それが現在の福岡城です。天下が平定されてもう博多への要衝であるこの場所の重要性もあまり見出せなかったのかもしれませんね。

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ちなみに黒田家は福岡城だけではなく福岡の町も新たに博多の西側に作ってしまいます。

新参者の黒田家にとっては博多の町にいちいち気を使うのが厄介だったのでしょうか。こうなってはもうますます名島城は必要ないですね。

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本来はこちらが大手門からの正式ルート。

豊臣期に特徴的な石垣が張り巡らされていたそうです。当然、福岡城完成とともにここは廃城になりました。

福岡城は江戸時代の城、戦国時代なら海の名島城、山の立花山城だよね。と言えたらもうあなたはマニアの仲間入りです。

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最後に大手門跡です。

名島城から移築されたという福岡城内に現存する「名島門」と合わせてご覧下さい。

しかし最近はこのくらい景観が変わってしまった方が妄想の力を存分に発揮できて楽しいですね。

地元に詳しい元消防隊員(55)も、もしかしたら私の妄想が生み出したオッサンなのかもしれません。・・・いやいや。

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